震災の一夜 東日本大震災

震災の一夜
〜2011年3月11日 東日本大震災の当日〜

 

 

震災当日の?М10時には仙台市の法務局にいました。
ここでの調べ物が終わり、そのまま石巻市に向かいました。
石巻警察署の西側に売り物件があり、この再調査に向かったのです。
翌日には県外からお客様がいらっしゃる予定でした。

 

?М11時前に石巻市のS銀行に着き、打ち合わせが終わり石巻市役所に。
さらに現地の売り物件を再度、確認に行きました。
そのあと旧北上川河口の石巻文化センターに行きました。
市役所の担当者に言われた調べ物が終わり、少し海を見ておりました。
この日は晴れていて、きれいな海でした。

 

そこを12時半に出発し、なにごともなくPМ2時には仙台駅の東口に到着。
鉄筋4階建ての比較的新しい建物の2階を、打ち合わせのため訪問しました。
着席して一言二言の挨拶を交わした瞬間に、グラグラグラ・・ときたのです。

 

訪問先の社長はこの地震に驚き、従業員が「社長、この建物は新しいので大丈夫です」
揺れで棚の書類は、ほぼ全て落ち、引き出しはそのまま飛び出し、一瞬にして
“足の踏み場のない状態に”なりました。抜き足差し足でつま先立ちになって、退出。

 

建物の後ろにある、自走式の立体駐車場に置いてある車に乗ろうとした瞬間に
もう一度、大きな揺れが来ました。
出口は2ヶ所ありましたが、駐車場の中で渋滞。もう一つの出口からクルマを出しました。
この時、すでに停電が発生しており、係員が手動でゲートを開け閉めしておりました。

 

路上に出ると歩道は人で溢れ、信号が作動せず大渋滞。
普段は通らない一方通行路をぬうように走行し、いったん自分の事務所に戻ろうとしました。
仙台は3月でも寒く、カートリッジ式のストーブがあったからです。
激震の揺れで転倒していたらと思うと気があせるばかりです。

 

仙台市は東北本線・仙石線・仙山線と3本の線路がはしっています。
ワタシが事務所に戻るには仙山線(仙台市と山形市を結ぶ線路)をまたいでいく必要があります。
この東照宮駅付近でも渋滞。遮断機が上がらない状態になっていました。
もう一つ東側にある踏切は幸い遮断機が上がっていました。

 

再度、一方通行をぬうように走行しやっと事務所に戻りました。
事務所の中は・・・グチャグチャで、足の踏み場はありません。
心配していたストーブは幸いにも、普段の位置にそのままでした。

 

夕方に雪が降ってきました。ワタシは再度・事務所を出発しました。
途中、地下鉄の台原駅の付近を通過すると、ものすごく多くの人が道路にいました。
(あとで知ったのですが、地下鉄がこの駅で運行停止になり、臨時の終着駅になっていたのです)

 

携帯が使えない状況の中、仙台市柏木・いう地点に向かっていました。
この日、PМ4時に待ち合わせがあったのです。
まさか、この大地震の中でお客さんは来ないと思ったものの
キャンセルの連絡もできず、名刺だけを置いてきました。
(この30分あとにお客さんが来たのを知ったのは後日の話です)

 

ラジオでは、地震のほかに津波が発生しているとニュースが流れています。
今一度、事務所に戻り念のためブレーカーを全ておろし、帰宅しました。

 

帰宅すると家族は全員無事でした。被害は瀬戸物など。食器棚から食器が落ち
半分はだめになりました。
物置にはキャンプに凝ったころのアウトドア用品があり、電池式のランタン・懐中電灯
ラジオなどをとりだし今夜にそなえます。

 

ラジオでは「・・〇〇地区は津波で壊滅・××地区も津波で壊滅・・」を繰り返します。
付近には明かりが一切ない、真っ暗闇の夜でした。
(キャンプ場でも多少のあかりはついています)
おまけに余震で何度も目を覚ましました。

 

翌日は徒歩で事務所に行き、片づけをはじめました。
数日たち、電気がつきました。電気の復旧が一番早かったです。
明かりがつくと、つくづく、ありがたく思えました。
ただ、スタンドが臨時休業でガソリンは給油できません。
クルマを動かしたのは、米を買いに行った時だけです。

 

それから2週間は何時間も並んで、スーパーに食料の調達です。飲料水も配給状態です。
電気もガスも水道も使える普段の生活が、多くの人々の努力により維持されていることを
実感した一夜でした。